台湾地震M6.4、日本からも救助活動に…。

1:22(長野)に出た、「臘月二十三日」

朝、寝床で佐久市で震度1」を聞きました。
震源地は、埼玉県北部だそうです。
廊下のガスヒーターは、久しぶりに1度を表示、厳しい冷え込みです。
外はどんより曇っていますが、アメダス、最低気温は氷点下12.6度(5:57)、30分前の12.2度より更に下がったということは、「放射冷却」のためと思われます。
今朝、1:22(長野)に出た、昨日・「臘月二十三日」のお月さまが、東の空高く光っていました。(7:39)
さて、「台湾地震その後が気がかりです。
昨夜のテレビ報道、日本から対応・救出の専門家が派遣されました。

ここに、一冊の本・著者:板垣寛さんから贈呈された『なぜ台湾人は 世界一日家なのか?』があります。

本の内容を、「帯」に記載された文を引用・紹介します。
あの大震災から6年。世界中からの支援に涙した日本!
中でもいち早く200億の義援金と600トンの支援物質を寄せたのは台湾
「なぜ台湾から世界一の篤志がとどいたのか」と疑問をもった著者の探求の旅が始まる。ー
「そうか、日本にはこんな先覚者がいたのか…と」
2011.3.11の東日本大震災を契機に、台湾と日本の友情は一層強固になりつつある。
 第二次世界大戦の悲劇をも乗り越えて息づいていた台湾の人々の真心は、後藤新平新渡戸稲造、伊能嘉矩をはじめとする先人たちが育んだものだった。また、神と祭られた特攻隊員・杉浦茂峰や、ダム技師・八田與一、弁護士・坂井徳章らがいた。

本文より、一部を引用・紹介します。
  日本の台湾統治時代
 東日本大震災に多額の支援金や多くの支援物質を一番先に日本へ届けてくれた台湾の現世代の心情の根源がどこから湧いて来ているのであろうか。私はその理由を知りたくなり調べてみた。
 すると日本の治世時代五十年の間にもともとアジアの貧困地域のひとつだった台湾は日本の先人たちに依り、農業と治水、インフラの整備と産業の近代化、教育(精神と技術の錬磨)を集め、台湾のめざましい発展の基礎を築いていたという事実があった。そこには欧米列強のような植民地支配による搾取ではなく、共存共栄を主とした日本の統治政策があった。その結果として現在の繁栄がもたらされたことに、多くの台湾人が感謝の念を忘れないでいる。
台湾が歩んできた道のり 一八九五年、日本統治時代が始まる 
台湾と岩手とのゆかりの人々
 などの項目に詳しい記述があります。(以下略)

 この本を読んで、新渡戸稲造の功績などを初めて知りました。
 おかげで、台湾を訪れてみたい気持ちが一層高まりました。
 
今日の信毎・夕刊に、「がれきの中で生命反応か」
 一方、花蓮県の幹部は生命反応の情報は誤りとの見方を示した。情報が交錯している。
 日本政府が派遣した専門家チームも夜を徹して活動を支援した。

 アメダス、最高気温は5.1度(14:39)、午後は、いくらか春の気配が…。
明日は曇り、お天気下り坂…、夜になって雪が降るかも知れません。