「佐久の季節便り」、武田氏の佐久侵攻・「志賀城の戦い」について学びました。

曇り空、冷え込みも緩みました。

アメダス、最低気温は、0.2度(6:29)、日中も春の陽気に…。

台所・出窓の「八重咲き・カランコエ開花春本番の気配が感じられます。

そろそろ縁側に出しても良さそうですね。

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今朝も、散髪予約しようと電話をしても、呼び出し音がならず、繋がりません。

火事現場には、今朝も規制線が張られているので、理髪店へ自転車で遠回り…。

まだ、出火原因がはっきりしないようで、警察官の姿も見えました。

なんと、理髪店は営業中…、火災のために電話線が損傷しているのだそうです。

なるほど、こんなこともあるんですね、火災現場の近くで、電話線の復旧工事をしていました。

土曜日の午後は、図書館ミニ講座…、戦国時代、「武田氏による佐久侵攻」について、講師・小林 收 先生のお話を受講しました。

特に、「志賀城の戦い」については、佐久人も多少は知っている、有名な戦でした。

十数年前の大河ドラマ風林火山・(武田信玄)でも扱われたシーンです。

先生は、『妙法寺記』・『高白斎記』にみる…、資料を読み解いてお話されました。

 

帰宅してから、『ウィキペディア』で復習しました。一部を引用します。

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志賀城包囲

大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。志賀城は上野の国との国境近く、碓氷峠を通じて関東管領上杉氏からの支援が期待でき、また笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。

天文16年(1547)閏7月、春信は大井三河守を先手として甲府を出陣。同24日(9月9日)に城の包囲を開始した。翌25日(9月10日)、金堀衆が城の水の手を断つことに成功。志賀城は窮地に陥った。(中略)

落城

武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒して威嚇。救援の望みが全く絶たれた城兵の士気は大きく衰えた。8月10日(9月23日)、武田軍は総攻めを仕掛け、外曲輪、二の曲輪が焼き落とされる。翌11日、武田軍は残る本曲輪を攻め、城主笠原清繁と関東管領からの援軍高田憲頼は討ち取られ落城した。

武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子どもは売り払われた。この時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられ、金銭で親族に身請けさせることがよく行われたが、この合戦の捕虜の値段は非常に高く身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。笠原清繁の夫人は城攻めで活躍した郡内衆の小山田信有に与えられ妾とされた。江戸時代に編纂された『甲斐国志』には涙にくれた笠原清繁夫人の哀話が残されている

小林先生は、3000の首級…?志賀城にそんなにたくさんの兵士がいたとは信じられない…。⇒ 3000は「小田井原の戦い」の敵兵で、志賀城での敵兵は300…。

笠原清繁夫人のその後について、「大河ドラマ」では幸せな暮らし…と、扱った。

しかし、女性の心情からは信じられず、そんなはずはありません…。

甲斐国志』の哀話の方が、真実であろう…と思われました。

史実とか時代考証とか…、真実とは分かりませんね。

 

夕方も春のようで、裏道の路面もぬかるんでいました。

土曜日なのに、小規模・保育所の工事が進めらていました。

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夜のテレビ、楽しみな「ブラタモリ」 

三陸へ絶景リアス海岸の秘密▽復活三陸鉄道の旅路▽極上ホタテ美味の謎 タモリ船でリアス探検

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以前、本来は、小石浜、藍の磯辺の名だったそうです。

佐久市ともゆかりのある、大船渡市です。

昔、第三セクターで開業された頃に乗車しました。

震災後、新しい三陸鉄道に乗車して、極上ホタテを味わいたいものです。

 

アメダス、最高気温は12.7度(15:16)、春めいた一日でした。