佐久地方に、「濃霧注意報」…、霜は降りましたが、冷え込みはやや緩みました。
アメダス、最低気温は氷点下1.9度(&:50)、日中は気温が上がる予報です。
貯蔵野菜の「玉葱」が、発芽・発根し始めました。
「ネオアース」品種と「紫玉葱」です。
芽はもやし状態…、妻の料理で美味しくいただきました。
残りは、早速、プランターに植えました。
これから、開花・結実の様子を観察していきます。
午前中、上の城農事組合・役員引き継ぎ会に参加しました。
研修についての話題は、廃藩置県、岩村田城の廃城後の土地利用について…。
調べたり、現地を見たり…、と、機運が高まりました。
参考資料・『岩村田藩物語』(中村勝実)、正誠登城(7代藩主)の一部引用します。
百八十戸
〜こうした混乱期を経て、明治四年(一八七一)の廃藩置県を迎えるが、当時この場内武家屋敷に住んでいたのは全部で百八十戸という記録がある。
しかし、廃藩後のこの場内武家屋敷の生活は塗炭の苦しみをなめることとなる。岩村田藩がその前身、高森藩として立藩以来、百七十七年間にわたって内藤家に仕えた家臣にとって、先祖代々の俸禄をを失うことは、その翌日からの生活にも響いた。「武士は食わねど高楊枝」。それは長い家門の重みとともに、その体面を維持することだけで、天下太平の世を過ごした彼らにとって、食べる手段は何一つなかった。
藩学で学問を身につけたものは寺子屋を開いた。こうして生きる道を知っている人はごく限られた数にすぎなかった。出入りの商人に生活の工面を託したのは、勘定方の武士だった。その手段を知らぬ多くの武士は、数年にして岩村田から離散している。武士の体面ばかりが重荷となって、ここでは生活できなかったであろう。
廃藩とともに、この武家屋敷はそれぞれの武士に払い下げられたが、家を捨てて他へ移った多くの武家の屋敷は、空き家となった。それもいつの間にか取りこわされた。そうした空き地となったところは畑地に変えられ、明治中期になると、かつては殷賑をきわめた場内も閑古鳥が鳴く状態となった。
畑と変った場内は居残った旧家臣が管理、ここを耕作し、やがて旧藩士だけで農事組合もできたという。いわば現在の農協のはしりともいうべきものか。
今日もテレビは、新型コロナウィルス・感染拡大問題が…。
民放テレビの報道、解説・表示・図表です。
「むやみに病院に駆け込まない」、その通りだと思います。
「治療法・対策、臨床試験に…」、夜のテレビで、期待される、明るい解説も聞かれました。
アメダス、最高気温は、12.8度(15:32)、最大風速は東南東の風3.5メートル(16:00)。
天気が変わる兆し、明日は、雨予報です。