昨夜のお月さまは、久しぶりに雲が広がり、見えません。
「浅間山」も薄っすらと、靄がかかっています。
裏のゴミステーションには、今年初の「容プラゴミ」袋の山が…。
アメダス、最低気温は氷点下7.2度(4:10)、日中は気温が上がる予報です。
お隣の軽井沢は雲に覆われて、佐久よりは冷えなかったようです。
8時前の気象情報で、「佐久市が氷点下5.1度、軽井沢が0.3度」と、表示されました。
七十二候・初候:「芹乃栄(せりすなわちさかう)」
厳寒の地・佐久ではそうはいきません、地面は凍りついていますから…。
見ると、「木瓜(ぼけ)」のつぼみが膨らんで、もうすぐ開きそうです。
建物前の日だまりとはいえ、その耐寒性・生命力には驚きです。
試しに株元に、「賢治ガーデン」産の実・種子を埋めておきました。
出版された『佐久の先人』に、「川村吾蔵」も掲載されています。
本のカバーに、顔写真も見えます。
右側の上から2番目、新聞掲載と同じ50歳ごろの写真です。
新聞記事の冒頭部分、1、芸術家を志した青年時代 一部を引用します。
吾蔵は明治17年、南佐久郡臼田村に生まれた。臼田尋常小学校(現臼田小)を卒業後、尋常中学校上田支校(現上田高)に入学。同中学校在学中に祢津村(現東御市)出身の画家丸山晩霞と遠縁となり、2人の交流が始まった。同じく中学時代に、小諸義塾の教師だった島崎藤村と出会ったといわれ、後交流が続く。
晩霞らの影響もあり芸術家を志すようになった吾蔵は同37年、20歳の誕生日目前に単身渡米。ボストンで英語を学んだ後、デッサン・スクールに入学。この学校の教授の彫刻家の助手となったことがきっかけで、彫刻家を志すようになり、同39年にニューヨークのアカデミーの彫刻科へ入学した。
アカデミーで優秀な成績だった吾蔵は同43年にフランスへ渡り、在仏で学究的な作風の米国人彫刻家フレデリック・W・マクモニスの助手となった。助手として働きながら、各地の美術館jや博物館へ出向き、研究に励んだという。大正元年には、仏国立美術学校に入学し、日本人初となる特待生となった。この仏時代に彫刻家オーギュスト・ロダンから助手になあるように誘われることもあった。
2、アメリカでの成功
3,帰国後 (以下略)
青年時代から、向学心に燃え、単独渡米、渡仏…という行動は、とても真似できません。
金森館長に、「なぜ、家から遠い上田中学に進学したんだろう…?」
率直な疑問を投げかけると、見学の子どもにも尋ねられたとか…。
当時、「野沢中学校」はまだ開校されていなく、「上田中学校」に入学・数年後に、「上田中学校・部校」(現野沢北高)として開校された…、とのことでした。
なお、当時の佐久に2校しかなかった、小学校高等科にも入学したこと…も、初めて知りました。
「遠い上田の学校に、どのように通ったんだろう…?」
これについては、『佐久の先人』に記述があり、上田中時代の暮らしが分かりました。
「〜学校近くの寺に下宿して通学した。」
「この中学校在学中に、母方の従兄弟が、小県郡祢津村の丸山健作(晩霞)と結婚し、晩霞と吾蔵との交流が始まった。」
さて新年になっても、コロナの感染拡大に歯止めがかかりません。
昨日から、「佐久地域」が「レベル4」になってしまいました。
今日、長野県は44人、佐久市立浅間病院の集団感染者数も増え、今までに40人となりました。
高リスクの高齢者・基礎疾患…、更に要注意です。
佐久市・内山では、100万円の強盗事件、犯人は逃走中…。
新年早々、物騒なことばかり…、こちらも要注意です。
アメダス、最高気温は9.0度((12:46)、異常な高温になりました。
こちらも、気温差に要注意です。