郷土・佐久平は、稲田(いなだ)の取り入れがほぼ終わり…。

「濃霧注意報が、長野県佐久地方に出ています。」

秋深まり、このような気象情報が聞かれる、季節になってきました。

朝のラジオ、お便りの紹介は、「昨夜、上弦の月が美しかった」…。

佐久は、残念ながら曇り空でした。

旧暦・九月九日は重陽節句「菊の節句とも呼ばれています。

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アメダス、最低気温は12.8度(4:04)、高気圧に覆われて、晴れの予報です。

手作り・「干し芋に好条件、先ず、輪切りにした「安納芋」を焼き芋に…。

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弱火で、1時間ほどかけて焼き上げ、平笊(ひらざる)に広げて、天日干し…。

日中、裏返し、3日ほどで仕上がります。

これは、安上がり、手軽に作れる、健康食品ですよ。

 

午前中、散髪を済ませました。

適度の「お湿り」のおかげで、「玉葱」苗の植え付けができます。

ところが、「暑いので、止めたほうがいいよ…」、妻の一声に従いました。

図書館へ行って、本の貸し借り…、浅科の「道の駅」へ「マンホール・カード」をもらいに行ったり…。

佐久市浅科地区は、ブランド米・「五郎兵衛米」生産の水田が広がっています。

遥かに望む浅間連峰、広い稲田は、ほぼ取り入れが終わりました。

道の駅には、お土産用の「新米」が並べられていました。

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午後、4時過ぎになって日が陰ってから、出かけました。

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ところが作業が意外に手間どり、薄暗くなってきました。

5時半、ピーマンを野良土産に帰宅しました。

空には、九日のお月さまが明るく見えました。

アメダス、最高気温は22.8度(14:42)、爽やかな秋晴れの一日でした。

「草雲雀」が、まだ鳴いています。

安曇野市コハクチョウが初飛来…。

「霜予報」が初めて出ましたが、まだ、大丈夫でしょう。

明日は朝飯前に、やり残した「玉葱」の植え付けを済ませます。

 

文集・『天風』十六号から、興味深い記事を、一部引用します。

郷土研究の前途を危ぶむ

〜しかし敗戦となるや「祖国の復興は郷土の再認識から」とする機運が急速に高まり、村々・集落あるいは国民学校(小・中学校)内などにはまさに「雨後の筍」のごとく、「史談会」や「郷土史研究会」が復活してきた。

 昭和二十年(一九四五)十一月、岩村田国民学校では同校読書会の主催で、「史談会」の創立者ともいえる郷土研究の大先輩、岩村田高等女学校長岩崎長思を招いて、岩村田町史の講演会を開いている。まさに戦後における郷土研究復活の第一弾といえようか。この会には後に『北佐久郡志』編纂の中核となる大井隆男や相木巌・与良清も出席しており、また、実質的には『北佐久郡志編纂会』を組織し、その副会長にもなった小林多津衛もその後、岩村田小学校長(北佐久教育会長)として着任、岩村田小学校は一時、郷土研究のメッカの観を呈した。

 こうした機運の醸成に一役果たしたのが、南・北佐久郡の教育会、なかんずく北佐久教育会で、会は一丸となって北佐久郡町村会に働きかけ、その全面的な資金援助を得て『北佐久郡志編纂会』を立ち上げた。(会長:北佐久郡町村会長、副会長:北佐久教育会長小林多津衛)

 昭和二十四年に岩村田中学校在籍の大井隆男が専従編纂員に就任して、具体的に動き出した。『北佐久郡志』編纂事業は、地域研究の時流にも乗って、積極的に協力した中央学会の研究者もあり、同四十二年までに『自然編』から『資料編』まで全五巻を刊行して、この大事業を完了した。

 北佐久郡志』 は実質的には北佐久郡教育会が組織を挙げて編纂に当たったが、これを可能にしたのは岩崎長思などの先達が、永年地元の教職員などに培ってきた郷土研究の予備軍であり、彼らが地域を挙げてこの大事業に参加したのである。  

 北佐久郡志』の編纂は郡内各町村に町村誌編纂の機運を興し、昭和二十年代末から平成の初頭にかけて、『軽井沢町誌歴史編』を皮切りに続々と『町村(市)誌』あるいは『集落誌』が世に出た。

 こうした『町村誌』編纂の先頭に立ったのは岩井伝重・小林尚二・鷹野一弥・新津亨・菊池清人など「史談会」系の人や教職経験者であり、『北佐久郡志』を支えた今井誠太郎・大井隆男・与良清・相木巌・白倉盛男・井出修一なども忘れられない。

 昭和四十年のころを境にか、『佐久』あるいは『千曲』(上田・小県)の会員数は停滞気味となり、それぞれの編集部では毎号の原稿確保に気を使わざるを得なくなったと聞く。現象的にみればそれは郷土研究を支えてきた地元の郷土史愛好家や現職教職員あるいは教職経験者からの寄稿や投稿が目に見えて減少してきたということのようである。

 もともと『佐久』や『千曲』は地元の郷土史愛好家の中から、ほとんど自然発生的に誕生し、維持されてきた郷土研究の機関紙である。したがってそれへの寄稿や投稿が減少してきたということは、現職教職員あるいは教職経験者の中に郷土史愛好家が減少したことを意味する。

(中略)

 かくして子どもたちは本来の「ゆとりの教育」の時を知らないがごとく、ひたすら学制の轍のなかに生きて、「わが郷土」の存在を忘れたが如くに見える。『佐久』や『千曲』の会員減少うべなるかな。ひたすら郷土研究の復活を祈るのみ。