「親日」の国、トルコへ。

真夜中に降り立った「アタチュルク」空

大震災直前に決定したトルコへの旅、複雑な気持ちのなかを旅立ちました。
トルコ共和国は、政情不安もなく親日・友好の国といわれます。シルクロードがアジアとヨーロッパとを結ぶ「東西文化の十字路」…とも呼ばれます。
搭乗したトルコ航空の飛行機は本来は直行便ですが、臨時に航空機燃料補給のため、ソウルのインチョン空港に立ち寄りました。
時差はマイナス7時間。画像、イスタンブールの「アタチュルク空港」には、当初計画より2時間半ほど遅れて、真夜中に着陸しました。
アタチュルクは、トルコ共和国初代大統領の名前です。
本名は、ムスタファ・ケマル・パシャ。第一次世界大戦で将軍として名をなし敗戦国となって、列強からの領土分割の干渉を受けましたが、救国戦線を指揮して国民軍を創設、共和制を導入しました。
広辞苑トルコ革命に、ケマル=パシャの指導下オスマン朝を倒して1923年トルコ共和国を建てた革命。イスラム圏で最初の政教分離国家ができ、近代化政策を推進。と、あります。

彼の像はトルコ国中に見られます。
また、肖像は通貨の「トルコリラ」紙幣・硬貨に見られます。

ホテルの窓から見た、向かいのホテルです。日本の日の丸も見られます。
日本からの来訪者は、フランス、ドイツに続いて多いそうです。
トルコが親日・友好的なわけは、祖先が同じモンゴル系とされます。また、よく知られている友好関係のはじまりには、エルトゥールル号」遭難救助があります。明治3年、当時のオスマン帝国の軍艦が和歌山県串本沖で台風により遭難、500名以上の犠牲者を出した大事件がありました。灯台下に流れ着いた生存者が数十mの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせました。灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは総出で救助と介抱にあたりました。
日本政府の通報、知らせを聞いた明治天皇は大いに心を痛め、政府として可能な限りの救助を行うように指示したそうです。各新聞は衝撃的なニュースを伝え、多くの義援金・弔慰金が寄せられたそうです。
なお、69名の生存者は一旦東京に送られ、20日後に品川を出航した日本海軍の軍艦、「比叡」と「金剛」により、オスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。なお2隻には、秋山真之らの海兵17期生が乗り組んだそうです。
この事実は今もトルコの教科書に載り、子どもたちに教えられています。こちらから、「和歌山の…」と話しかけると、「そう串本…、娘の小学4年生も知っている。」と、話しました。
そして、ガイドさんは、「このたびの大震災を国民がたいへんに悲しんでいる。」と、話しました。