「佐久の季節便り」、ひろば・「賢治ガーデン」を、雨の前に手入れ…。

朝から曇って、また「梅雨空」に…。

アメダス、最低気温は18.0度(5:05)、午後には雨が降る予報です。

月初めの金曜日は、「古紙」の回収日です。

他出後一日、古紙のまとめは、日付が替わる未明までかかりました。

「古紙は資源…」ということで、印刷物の他にノート類も回収してもらえます。

雨の降らない午前中に、ひろば・「賢治ガーデン」の手入れ作業を行いました。

「天竺牡丹・ダリア」、早い品種は咲き始め、「檀特・カンナ」は、花茎を伸ばし始めました。

支柱を立てるタイミング…、支柱・「イボタケ」は、昨日、立て替え払いで用意してありました。

作業は、伸びた雑草の「選択的除草」…、「シロツメクサ(白詰め草)」などは、観察のために意図的に残します。

子どものころが懐かしく思い出される「クサボケ(草木瓜」、朱赤色の花が目立ち、「地梨(じなし)」と呼んで、ポケットに忍ばせた果実…、投げ合ったりして遊んだ格好の玩具でした。

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手書きのネームプレートが、消えかけてきました。

そろそろ補修しないといけませんね。

午後は、雨が今にも降りそう…、野良仕事は敬遠しました。

 

先日の訪問地や関係する人物について、ネット検索などで復習しました。

要約・引用します。

公益財団法人妻籠を愛する会理事長 小林俊彦さん

◯ほんの50年前のこと。妻籠には未来がなかった…

〜現在では年間60万人以上の観光客が訪れる妻籠宿。

日本で初めての町並み保存の試みは、当時からは想像できない程に成功している。

◯古い古い家並みから文化財へ。妻籠に希望の光が灯る。

小林さんの出身は佐久市。農学校の獣医科を卒業し、吾妻村(現南木曽町)の農業指導員をしていた。

当時、農耕馬は大切な労働力。馬が病気になると小林さんが呼ばれ、心配をする集落の人々が様子を見守りにやってくる。(中略)

昭和34年のある日のこと、妻籠の人たちが小林さんのところにやってきた。

「64名の名前が書いてある連判状を持って、妻籠をなんとかしてくれっていうんだ。

よほどの思いだったんだろう」

そして、吾妻村の職員として、村の再生に向けて動き始める。

〜やがて、町並み保存と環境保護から妻籠を活性化することはできないかという考えにたどり着いた。〜昭和40年頃には、オートバイに乗って東海道中山道を走り尽くした。そこで見たのは、「開発」の名のもとに姿を消しつつあった宿場だった。江戸時代には1,000個以上もあったと言われる宿場。その趣を残している場所はなくなっていた。

妻籠宿を残せると確信したんだ。これは湯飲み茶碗理論って呼んでいるんだが、300年前に陶器職人が3,000個の湯飲み茶碗を作ったとする。300年後に湯飲み茶碗がたった1個だけ残ると、それが300年前の陶器として文化財になるんだ。手つかずのまま残された妻籠宿とこの景観は、きっと文化財として残せる。

(中略)

「この計画が実現すれば、妻籠に修学旅行や外国人観光客が沢山やってくるって言い続けたんだ」「嘘も100回つけば本当になるんだよ」と言い、からりと笑う。

小林さんが言い続けたのは嘘などではない。「こうしたいんだ。こうするんだ」という強い信念である。(以下略)

以上、この真実を知って、佐久市民としても大いに尊敬し、誇りに思います。

より多くの佐久市民に、小林俊彦さんの功績を知ってほしいと思います。

 

午後のテレビ報道で、連日、感染者が増える「コロナ禍」、いっそう気がかりになりました。

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これは市中感染…、都市圏への訪問は自粛しなければなりません。

 

アメダス、最高気温は24.8度(13:28)、気温は上がりませんでした。

夜になって、雨音が激しくなっています。