「佐久の季節便り」、「迎え盆」で、明け暮れました。

また、蒸し暑い朝に戻りました。

浅間連峰は、すっぽり雲に覆われています。

「濃霧注意報が、長野県佐久地方に出ています。」

聞き慣れた、天気予報です。

アメダス、最低気温は21.8度(5:45)、「曇り、時々晴れ、所によっては雨…」

この予報も、ずいぶん聞き慣れました。

今日は、「お盆の入り」です。

昨日のうちに用意した「お供えの花」が、玄関に置かれています。

「迎え火」。「送り火」用にいただいた「麦藁の束も置かれています。

今朝のラジオで、「お供え用の花束が、注文が多くて用意できない」とか…。

本来、お供えの花や、野菜・果物などは、身の回りで生産されたものであるべき…。

今朝も、庭先の「鬼百合」の花と、父が生前に植えた「擬宝珠(ぎぼし)」の花を追加しました。

それらは、身近な様子をご先祖様に、観てほしいからです。

戦後78年、当時の実際を知る高齢者には、「8月」、「お盆」は、即、戦争…を思い出させます。

読売新聞 長野版 見出しが目に飛び込みました。

長野空襲 若者が伝える サイト制作 体験談など記載

戦時の須坂 蔵えしを思う ポスターや教科書

私は、上高井郡仁礼(にれい)村・現須坂市に生まれ、終戦まで戦時中を暮らしました。

また、母絵の実家が長野市で、毎年、お盆には実家を訪れていました。

そして、昭和20年8月13日には、長野空襲を実際に体験したのです。

国民学校2年生の子どもにとって、空襲の怖さよりも、大人たちの慌てていた様子が、目蓋に残っている。

物干しの妹の襁褓(おしめ)が、「飛行機から目標にされる…」

片付けるために、防空壕から、出ていく母親…、やっぱり心配でした。

祖父は、決死の覚悟で家から出てこない…。

その夜、仁礼の自宅まで、夜通し歩いて逃げ帰りました。

その2日後が、終戦でした。

母の弟の「出征」、その激励宴会で、子どもなりに、素直に喜べませんでした。

軟弱な態度の男の子…、母親には肩身の狭い思いをさせてしまいました。

今でも、申し訳なくて、心が痛みます。

 

私の「お盆」は、このような気持ちで始まります。

お墓参りで、盆花も備えました。

夕方には、「迎え火」も焚きました。

近年、この風習は見られなくなりました。

暗くなって、提灯にも灯りが点りました。

遠くの兄弟たちから届いたお供え物も、並べられました。

「雷注意報」、夕方と夜に、ぬわか雨が降りました。

「台風7号」の予想進路は、だいぶ西に逸れました。

しかし、周辺部への風雨の影響は、ありそうです。

 

アメダス、最高気温は33.2度(14:30)、最大風速は東北東の風4.8メートル(13:20)でした。