復興を願う、「ガーベラ」の花。

「ガーベラ」の鉢に、朝日が差しtて。

土曜日、7時半は、「落合恵子の絵本の時間」です。
「生命あるものたちは、大きく背伸びして深呼吸し,春ですよー」と、叫んでいる。
そして、赤や黄色に、花や野菜も自然の色を見せている。
今日は、マップスを紹介されました。
今朝は、アメダス最低気温は氷点下3.4度(5:50)、予報ほどは下がりませんでした。
浅間山は、頂上部分にだけ雪雲がかかっています。
窓辺の「ガーベラ」鉢に、朝日が斜めから差し込んでいます。

「ガーベラ」の花、復興支援ソングを歌手たちが手に持って歌う…。
たった1本の花が、復興を願う説得力を持つから不思議です。
キク科ガーベラ属の多年草。明治末期の渡来とされるが、南アフリカ原産のいくつかの近縁種の交雑による園芸植物で、鉢植え。切り花として愛好される。
〜赤、橙系が多いが、色、形ともに変化に富むものが作り出されている。
庭先のデージーの前に並べて、春の陽の日光浴…。

『JAFMate』4月号に、「被災地を訪ねて」が載っていました。
「私たちに体験を生かしてほしい」から、一部を引用します。
田老地区全体を 津波防災の 学習場所にしたい
 世界に名を馳せた、田老地区の巨大防潮堤。東日本大震災津波は、高さ10mの堤を乗り越え、1691戸の家屋を破壊し、181人(行方不明者を含む)もの命を奪いました。
 「田老は、明治29年昭和8年にも大きな津波に襲われました。それでもやっぱりここに住みたいという思いが強かったのでしょう。昭和9年から53年度までに3つの防潮堤が築かれたのです。」
 と話すのは、宮古観光文化交流協会が行う「学ぶ防災」のガイド、元田久美子さんです。

 データをみると、過去2回に比べ、物的被害は大きかったものの、人的被害が少なかったことが分かります。
「1人の犠牲者も出さないために44もの避難場所があり、どの家がどこを使うかまで決めて、ソフト面の教育も行われていました。しかし、実際には、防潮堤への過信に加え、津波が来るまでの40分の間に家に戻ってしまったという油断もありました。昭和9年に建てられた碑に刻まれている「高所に避難したら1時間は戻らず我慢しろ」という教えが守られなかった。くやしいです。
 田老には今後、高さ14.7mの防潮堤が建設される予定です。防潮堤には、避難する時間を確保したり、人や物、家屋などが遠くまで流されてしまうのを防ぐ役割もあるのだと、元田さんが教えてくれました。
 元田さん自身も津波で義理のお母さんを亡くし、助けられなかった自分を責め、だれにもその胸の内を明かせなかったそうです。しかし、ガイドの仕事を始め、たくさんの人に津波の教訓や命の大切さを伝える中で、生きる意味を見出せた、と言います。
以前の2度の大津波宮沢賢治と深い関わり・因縁があります。
明治29年は生まれた年、そして昭和8年は亡くなった年なのです。
津波という大自然に対して、人間がいかに無力であるか…、彼の人生、生き方に大きな影響を与えたはずです。
「防潮堤」を高くしたからといって、人間は決して過信してはならないのです。
日中は春本番、陽気につられて外仕事…、水道の不凍栓を開けて、庭一面に散水しました。
裏道わきの空き地で、タンポポなどの雑草を除草したり、塀際に積もった枯れ葉を除いたりしました。
キンポウゲ科のスプリングエフェメラルたちが、芽を出し花を咲かせ始めました。
ホウチャクソウ」や「エンレイソウ」の新芽は、黄色くまだ寒さ避けが必要です。
妻からクレームをいただいて、改めて枯れ葉を被せました。
田んぼに出かけると、農家の方々の姿が見え、仕事を始めていました。

このところ、夕方から夜に雲が広がります。
今夜の「如月十八日」のお月さまも見えませんでした。
アメダス、最高気温は11.9度(15:10)でした。