4月並みの陽気になりました。

今朝のテレビ番組表。(23.3.13

巨大地震の翌朝、新聞テレビ番組欄に、通常のものはありません。
画像、「日曜討論 巨大地震にどう対応?…」が目に入りました。
政治は何をなすべきか?
与・野党の云々でなく、この被災の惨状に対処してほしいです。
日中はぐんぐん気温が上がりました。
昨日、求めた花の苗を植え付けました。


ヒナギク(デージー)」の花です。
昨日、3月12日、誕生日の花です。
きょうの一句、水取や奈良には古き夜の色 松根 東洋城
花言葉は、無邪気 幸福とか…。

今日のテレビで、「東北関東大震災」が告げられ、地震の規模、マグニチュード9.0と修正されました。これは、震源域が一つでなく、長さ500キロ、幅200キロという断層の数カ所で、5分間も続きました。計算し直した結果だそうです。
過去の記録的な大津波について、説明がありました。明治29年に三陸地方を襲ったものです。宮沢賢治が生まれた年です。『年譜 宮沢賢治伝』から一部を引用します。
〜賢治が生まれた8月より先、6月15日、記録的な大津波三陸地方を襲った。午後7時より翌16日朝まで激震31回。なかでも八戸附近から雄勝、女川までがもっとも悲惨をきわめた。流出、全壊家屋9300余戸、死者18,158人。農作物はほとんど全滅という惨害をこうむった。
 7月には大風雨がつづいて北上川がはんらんし、家が流れ、田畑が荒らされた。夏も寒く、赤痢がはやった。
 賢治が生まれた8月27日から五日目の8月31日午前5時、また大地震がおこった。初孫を心配して、波のように揺れる地面をようやくふみしめながら鍛冶町まできた祖母キンの見たのは、二十歳の嫁イチが、えじこの中の賢治をかばうために両手でしっかりえじこをかかえ、のりかかるように上体をおおってお念仏をとなえているすがたであった。しかし幸いけがも被害もなかった。震源地は県内和賀郡沢内村の真昼岳で、このときは岩手より秋田の方に被害が多かった。

賢治の家の近くには江戸時代の飢饉を記録した石造物があり、自然災害とともにこの事実を知ったことが、賢治の生き方に影響を与えたことは、十分に理解できます。

二月九日(上弦)」のお月さまです。
(18:37)