冬型、雪が舞い、「フクジュソウ」は開ききらず…。

『文藝春秋』四月号の表紙

就寝時刻が早いと、当然のことながら、目覚めが早くなってしまいます。
枕元のラジオを点けると「松田聖子」特集の歌が…、「赤いスイトピー」から、とうとう「薔薇の花が咲くようにの花が…」まで、耳にしていました。
知らない歌ばかり、でも、歌われている花は知っています…。
4時、新聞を取りに出ると星が…、街灯の光を右手で遮りながら、寒さも忘れて見上げました。
北斗のひしゃくの柄が、春の大曲線になって南の空につながる…。
新聞広告欄に、『文藝春秋』四月号、「明治百五十年」美しき日本人50人
宮沢賢治も、記載されています。
7時32分、気象予報士の「お天気ワンポイント」は、「高気圧、光の春を呼び戻し…」
暖かい春を待っている人たちには、嬉しい言葉でした。
アメダス、最低気温は氷点下5.2度(4:00)、雲がある分だけひえこみがやや緩みました。
先日購入し、軒先に置いた「錦木蓮」の蕾に、ヒヨドリ(鵯)が近づきました。


毎年、この時期になると、「シデコブシ(四手辛夷)」の花の蜜を狙われます。
急いで、鳥避け対策をしました。
文藝春秋』を電話で注文すると、すぐに配達してくれました。
目次、宮沢賢治など50人の一部です。

本文、宮沢賢治雨ニモマケズ」に込めた祈り 宮澤和樹 姪孫 林風舎代表
まとめの部分、一部を引用します。
 こうして、農民たちの生活の向上のために命を削った賢治さんを、「自己犠牲の人」と評する人もいる。だけど、それは少し違うのではないかと思います。自分のためだけに行動しても、後には何も残らない。人のために動くことで、自分自身も生かされる。きっと、それが賢治さんの信念だったのでしょう。
 東日本大震災のとき、ボランティアや自衛隊員の方々の間で、『雨ニモマケズ』がよく読まれたそうです。被災者への励ましではなく、自ら「行ッテ」いる人たちの言葉として受け継がれていることを、賢治さんも喜んでいるのではないでしょうか。

2011年12月NHKテレビテキスト『100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治』に、賢治はなぜ震災を描かなかったか ロジャー・パルバーズの文から一部を引用します。
〜それが一人であっても多いと思うからです。自分に近しい人が亡くなれば、それが一人であろうと、深い悲しみに包まれるでしょう。
〜作品は親しみの感じられる、非常にパーソナルな話ばかり。賢治は一人ひとりの大きな悲しみが痛恨に堪えない。彼はひとりの悲しみで精一杯だったのではないかと思うのです。(以下略)
小生もまったく同感、そのとおりだと思います。
自然は、人間の及ばない領域であり、人間の力ではどうしようもないのです。

午前中、日差しがあったので「鉢花」を縁側で日光浴…。
「ムレスズメ(群れ雀)」の花が、そろそろ終わり、花殻を摘んでやります。

復興ソング・「花は咲く」で、手に持つ一輪の花は「ガーベラ」。
冬を越して新しい葉が伸び、株元には花芽も見えます。

日が出ても気温が上がらず、お昼頃には、にわかに雪が舞いました。
フクジュソウ福寿草)」、「クロッカス」の花は、開くことができませんでした。

夕方、「二月十三日」のお月さまが、東の空高くかかりました。(18:06)

アメダス、最高気温は5.5度(14:40)、予報より寒い一日でした。